ここ数か月、人付き合いというものが億劫で仕方ない。
ただし、もともと女子特有のおしゃべりは苦手なほうなので、今に始まったことではないのだが、年を重ねるごとに、他人は腹の中で本当は何を思っているのだろうと勘ぐってしまうことがルーチン化されて、なおさら他者との会話が面倒臭くなってしまった。
亡くなって6年になる旦那の言葉を思い出す。
「友達〜?いるからってなんなの?」
自分が友達だと思っていた人たちより少し早く結婚し、子供に恵まれ一心不乱に母になろうと頑張っていた時分には、ほとんどの友達付き合いというものが無くなっていた。
そして、気づいた時には、互いに心を許しあえるような親友はいないのだと自覚した。
それとは反対に、誰とでも仲良くなれる旦那をうらやましく思い、『自分も飲みに出かけられるような友達が欲しい』と愚痴をこぼした時に言われたのが、「友達~?いるからってなんなの?」である。
当時は、毎週のように飲みに誘われて出かける旦那になど、人の気持ちがわかるものかと腹が立ったが、今になってその言葉は嘘ではないのかなと思ったりもする。
確かに、職場やプライベートで友達らしき人たちとは仲良くしていた旦那だったが、それがどの程度のものだったのかを考えてみれば、なんとなく察することが出来た。
旦那の病気を知って親身になって心配してくれた人は、飲み仲間の1/3いるかいないかくらいだったから。まぁ、自分にしてみればそれでも十分だとは思うが、要は、うわべだけの付き合いなら、『友達』という概念や定義は持たずにつきあえばいいのだと思った。学校や社会で友だちのような顔をして付き合っている人々の大部分は、友だちを装っているだけ。だから、その人たちのために自分を変えたり、演技する必要はないということだ。
そして、最近よく気づかされることは、自分が思うほど、他人は自分の存在を意識していない。
自分の陰が薄いんだと言われればそれまでだが、「あれ?さっきそれ自分が言ったことなのに」「その仕事しておいたの自分なんですけど…」なんてことが結構ある。
まさに、他人は他人。こちらが神経すり減らしてまで気を使う必要などない。
と、分かっちゃいるけどやめられない。
職場だけの大した付き合いじゃないから、顔色伺うことなんて必要ないんだけどなぁ~。
こっちは結構気を使っているのに、気持ちが伝わらないことがあるんだよなぁ~。
友達ごっこは疲れるよ…
本当に、人との関係性が幸せを感じる要因にもなったり、生きづらさをもたらす要因にもなったりする…
四十にして惑わず、五十にして天命を知る。
人は四十歳に達すれば、自らの生き方についてあれこれ迷わない。
五十歳になって、天から与えられた自分の使命を悟るようになる。
孔子
『中年』と呼ばれる立ち位置にいる自分は、まだ小学生みたいな悩みを持ち、日々くだらないことで迷いに迷っている。
恥ずかしながらこの年で、友達と呼べる人は一人もいない。が、かろうじて、娘二人が気を遣わずに馬鹿を言い合える友達といったところか。
今思えば、子供達によく言っていた「みんなと仲良く」という言葉は何て無責任なんだろうと、反省している。